楢﨑 瑞の日記

夏はこれから

「勝つことでしか応えられない思いもある」


夏の高校野球山口大会は、下関国際の優勝で幕を閉じました。


決勝が終わって、大会を振り返る「なつあと」をJチャンやまぐちで放送して…という流れの先に、
「ああ、今年も7月が終わりか…」という複雑な感情があります。

山口大会が終わることで生まれる、満足感というか達成感というか…喪失感というか。

改めて、自分の中で高校野球という仕事がいかに大きなものかを感じます。


私は高校野球を取材する中で「悔いのない夏を」というワードをよく使うのですが、
この夏、ある高校の監督が、ふとつぶやいた言葉でハッとさせられたことがありました。


それが冒頭の言葉、

「勝つことでしか応えられない思いもある」…です。


その監督は、練習が非常に厳しいことで知られていて、
なにより勝負に対するこだわり、準備、考え方が徹底されている方でもあります。


その監督が、ある会話の中でこう話しました。


「試合に出ている人間は全力でプレーします。だから、負けた時、ある程度は【悔いはない】と言えるかもしれない」
「じゃあメンバーに入れずにスタンドでメガホンをたたいているメンバー外の選手は?」
「ベンチでその瞬間を迎えた控えの選手は?」
「夏の大会のメンバーを外れた日から、一日何百球と打撃投手として投げ込んだり、ずっとトスを上げたり…
 メンバーの為に、ひたすら練習の補助に回ってくれた子たちは?」
「彼らは夏の大会でプレーすることはできません。
 ならば彼らの思いに、私は監督として【勝つこと】でしか応えられないのではないかな…と思うのですよ」


この監督は決して、
「勝つことがすべて」と言っているわけではありません。

ひとりひとりに向き合い、ひとりひとりを思うから、
その思いに応えるには…と真剣に考えている監督です。


「全国4000以上もある野球部から、うちの野球部を選んでくれた。そこでの2年半、およそ1000日に人生をかけるわけです。彼らは。
ならば、それに人生をかけて向き合うのが私の義務。試合に出る出ない関係なく、です」


「悔いのない夏」とは何なのか?
自分はグラウンドでプレーしている選手しか見えていなかったのではないか?

「試合に出られない選手たちの思い」という点、
分かっていたようで、本当には分かっていなかったのだな、と自分が恥ずかしくなった場面でもありました。
そして、なぜこの監督が勝負にこだわるのかが、少し理解できたような気がしました。


「勝つことでしか応えられない思い」は、
じゃあ負けたチームは応えられないのか?という話ではなく。
あくまで私個人の思いとしてですが、
試合に臨む者の思いとして持っているべきものなのかなと思っています。


出られない選手たちが必ずしも「勝つことで応えてほしい」と思っているということではなく、
試合に臨む者のプライドや思いとして、「勝って応える」という気持ちで臨む、ということなのだと。

その思いが、試合に出る者とサポートするものの「気持ちのかい離」ではなく「一体感」に繋がるのではないかな、と。
私が言うとすこし生意気かもしれませんが、そう思うのです。


7月27日。

その監督は、そのチームは、県勢では14年ぶり7校目の連覇を果たしました。


普段は厳しい表情の、その監督の目に光るものがあったような気がしましたが…
本人が否定なさったので、おそらく気のせいなのでしょう。おそらく。

「本当に越えなければならない壁が、甲子園にあります」

勝つことでしか応えられない思いを糧に、
闘将に導かれた頼もしい選手たちが出した、偉大な「結果」
100回目の夏に、彼らの物語は、まだ続いていきます。


山口大会を終えて、感じたことがたくさんあります。
球児のみんなに伝えたいことも。
いろんな事を書きたいのですが、だいぶ長くなってしまったので…
また近々にこの場で書かせてもらえればと思います。


それに、残った1チームの夏は、まだ終わっていません。
それはつまり、やまぐちの、100回目の夏はまだ終わっていないということです。


私たちの代表である、彼らの戦いを見届けましょう。みんなで。