≪感謝とお別れ≫

長らくレノファ山口を担当してまいりましたが、この度、その任を離れなければならなくなりました。 少し長くなりますが、ご一読いただければ幸せます。 yab山口朝日放送「みんなのレノファ」 初代ディレクター 大田 幸人


≪感謝とお別れ≫
長らくレノファ山口を担当してまいりましたが、この度、その任を離れなければならなくなりました。

少し長くなりますが、ご一読いただければ幸せます。

yab山口朝日放送「みんなのレノファ」

初代ディレクター 大田 幸人

 

 

2010年11月。

おなかに新しい命をいだいた妻と共に、茨城県・ひたちなか市へ行きました。

JFL昇格をかけた、全国地域リーグ決勝大会。

業務・取材としては、行けませんでした。なので、プライベートで行きました。

レノファ山口の戦いぶりを、どうしても、この目で観ておきたかったので。

 

魂の震える試合がありました。SC相模原を相手に劣勢を跳ね返し、2点ビハインドからの逆転勝利でした。誰かれ構わず、ハイタッチをしました。後にGMとなる男の「山口一番」で喜びに浸りました。

この時、JFL昇格とはなりませんでしたが、オレンジのチームに魅了されました。

 

2011年4月。

中国サッカーリーグ開幕戦。岡山県美作市。

山口からマイクロバスでやってきた選手たち。観戦スタンドもなく、グラウンドレベルで声を張り上げるサポーターたち。この時は、当たり前だった地域リーグの光景。

そして…。

JFL昇格を至上命題に掲げた、大切なシーズンの初戦に、敗れてしまいました。

レノファの苦難と雌伏の時は、まだ、もうしばらく続くことになるのです。

 

暴風雨の徳地で、ライバルチームに逆転負けを喫した時もありました。

灼熱の人工芝で、フラフラになりながら戦ったこともありました。

つらく哀しい別れもありました。

正直、心が折れそうになりながらも、カメラを持って試合会場に通い続けました。

 

2013年9月。

レノファ史上初の、維新スタジアムでのナイトゲーム。

相手は、どうしても、どうしても勝てなかったライバルチーム。

オレンジの選手の、地を這うようなロングシュートが相手ゴールに突き刺さりました。

カクテル光線に照らされて、歓喜に沸く維新劇場。

 

8年に渡る、中国サッカーリーグでの戦いは、このシーズンで終わりました。

全国社会人サッカー選手権を制したレノファ山口は、JFLへ昇格したのです。

 

シーズンオフ。

私はテレビ朝日のサッカー中継担当プロデューサーの元に、なかば強引に押しかけ、教えを乞いました。

「サッカー中継をするには、より良い取材をするには、どうすればよいのか?」と。

ありがたいことに、多忙を極めるプロデューサーも夜から朝まで、日本代表戦などで駆使される貴重なノウハウを、丁寧に事細かに伝授してくれました。

 

そして2014年3月22日。

JFLホーム開幕戦。レノファ山口FC vs.栃木ウーヴァFC。入場者数2260人。

yabで生中継。

この生中継のスタッフ用の資料に私が記載した内容の一部を、恥ずかしながら、そのまま掲載させていただきます。

 

 

2006年に発足し、9年目にして悲願のJFL昇格を果たした「レノファ山口」。

プロスポーツのない山口県において、トップカテゴリのクラブである。

JFLは日本サッカーにおいて4部リーグである。しかも、アマチュアリーグである。

日本全国を見渡しても、JFLの生中継をするyabは、奇異な存在に映るだろう。

「プロスポーツに関わる取材がしたい」

この業界にいれば、誰もが思うことなのではないだろうか?

だが、山口ではノーチャンス。だったら、作ればいいじゃないか。

スポーツにおいて「応援」は、欠かせない大きなチカラとなる。スタジアムの声援は選手たちの背中を後押しする。それがクラブを強くする。

しかし、レノファの認知度は、まだ十分とは言えない。県民にもっと知ってもらわなければならない。そしてスタジアムに足を運んでほしい。

「レノファを知らない人たちに、少しでも興味をもってもらう」

それが、本中継の唯一無二の目的である。

この中継は、大いなる先行投資なのだ。レノファが強くなって、いつかJリーグに上がった時、きっと今回の中継が活きてくる。

予算よりも、視聴率よりも、大切なものがあるはずだ。

肝に銘じてほしい。レノファがJリーグに上がりそうだから中継するのではない。

上げるために中継するのだ。

それが、山口に生きる、我々ローカル局の使命である。

 

 

試合は、島屋八徳選手と池永航選手のゴールで、レノファが2-1で勝利しました。

そしてyabでは、夕方のニュース番組「Jチャンやまぐち」にて、毎週月曜日に「レノファ山口 Jへの道」がスタートしました。

ホームも、アウェーも。レノファを追って日本全国を飛び回る、私の生活が始まりました。

 

2014年11月9日 午後2時48分。

雨上がりの栃木の空に、そのホイッスルの乾いた音が響きました。

JFL年間順位4位確定。Jリーグ昇格条件をクリア。

 

2015年3月15日。

あの光景は、一生忘れることはありません。

維新スタジアムにはためく、Jリーグのフラッグ。その隣には、慣れ親しんだオレンジのフラッグ。

山口に、Jリーグがやってきました。

エースストライカーの咆哮。いつもより1回転多かったバック転。熱狂するスタンド。

中継車の中でスタッフに指示を出すインカムに向けて、私の中であたためていたフレーズを初めて口に出しました。

「“とりてん”! 鳥養のバック転だから、“とりてん”だよ!!」…と(笑)。

 

そして「みんなのレノファ」が、始まりました。

 

2015年11月23日。

正直言うと、あの時は「大分って車で行けばいいのか?予算は残っているか?体制は?放送はどうする?」と、考えていました。

 

J3リーグでも、いろんなところに行きました。

大きな機材を持って、慣れない都会の電車に揺られたこともありました。

盛岡への新幹線が信号トラブルで止まり、キックオフに間に合わないこともありました。

沖縄へ日帰りで行ったこともありました。

いろんなものを、なんとかやりくりしながら取材をしていた私は、この後に対峙する可能性のあった大分トリニータとの入れ替え戦のことを考えてしまっていました。

 

長野でのゲームの状況を確認して、鳥取のスコアボードの時計を見た時、その針は真横に「45」の部分を差していました。

山口にとって、あまりにも苦しい状況でした。

 

でも…。

背番号39がピッチに現れ、その右足を振り抜いて、閉じかけていた新たなステージへの扉をこじ開けたのです。

地域リーグ時代からチームを引っ張ってきたキャプテンが、仲間にもみくちゃにされる。

伝説がうまれた瞬間でした。

 

レノファ山口、J3リーグ優勝、J2昇格。

 

そして2016年。J2リーグ。

山口でJリーグが「日常」になっていくのを感じました。

維新スタジアムが1万人以上の観客で沸き立つ。ほんの数年前までは、考えられないことでした。

快進撃もありました。勝てない時期もありました。全42試合の真剣勝負。本当にタフな戦いでした

私はyabのロゴの入った水色のキャップをかぶり、ピッチレベルのカメラの横で、ずっと取材を続けてきました。間近で聞くボールを蹴る音、選手の声、スタンドからの歓声。

私の中でも、それが「日常」となりました。取材・編集・原稿執筆・放送…。幸せな「日常」でした。

 

2017年3月13日。

前日の大分トリニータ戦のVTRを「Jチャンやまぐち」で放送し終えた瞬間、私のレノファ担当ディレクターとしての業務は終わってしまいました。

もう、私は「みんなのレノファ」に関わることができません。

サラリーマンに人事異動は付き物。残念だけれども、これも人生。

 

これから。やりたいことがあります。

実は私は、まだ一度も家族とレノファを観戦したことがありません。

レノファは「仕事」だったため、観客として維新スタジアムで応援したことがないのです。

これからは、もうすぐ小学生になる娘と妻と共に、維新に行きたいと思います。

一番身近な存在に、レノファの魅力を伝えていきたいと思います。

 

私は、「攻撃的で、アグレッシブで、ちょっと危なっかしいけど、観ていて楽しいレノファのサッカー」が大好きでした。

「みんなのレノファ」は、今後もずっと続いていきます。

後輩たちが「レノファソウル」を胸に、もっと心に響く番組にしてくれることを期待しつつ。レノファに関わる全ての皆様への感謝の気持ちを添えて。

 

さぁ、これからも、やってやろうぜ!

 

今まで、本当にありがとうございました。

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